その他の情報
この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿で太政官の会議が開かれることとなりました。しかし、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくし、雷雨が降り注ぎ、1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃しました。
清涼殿では、本来宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、大混乱となりました。穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は、清涼殿から常寧殿に避難しましたが、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御しました。
死亡した藤原清貫が、かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まりました。
また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなりました。
天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことです。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことを指します。
本来、天神は国津神に対する天津神のことであり、特定の神の名ではありませんでした。しかし、道真没後すぐに、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ、火雷天神(からいてんじん)と呼ばるようになりました。
のちに火雷神は、日本太政威徳天(にほんだいじょういとくてん / にほんだじょういとくてん)などの神号が確立することにより、さらには、実道権現(じつどうごんげん)などとも呼ばれ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まりました。
北野天満宮と太宰府天満宮は、それぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではありません。
そのため、北野天満宮と太宰府天満宮では「総本社」「総本宮」という呼称は用いず、「天神信仰発祥の地」という言い方をしています。
菅原道真と牛との関係は深く、「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在します。
そのため牛は、天満宮において神使(祭神の使者)とされ、臥牛の像が決まって置かれています。