その他の情報
世界人権宣言の起草委員会は、オーストラリア、ベルギー、白ロシア(現ベラルーシ共和国)、チリ、中華民国、エジプト、フランス、インド、イラン、レバノン、パナマ、フィリピン、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、ウルグアイ、およびユーゴスラビアからの代表によって構成されており、広範囲に国際社会を代表できるよう設計されていました。
世界人権宣言が起草された際、賛成した48ヶ国は以下の通りです。
アフガニスタン、アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、ビルマ、カナダ、チリ、中華民国、コロンビア、コスタリカ、キューバ、デンマーク、ドミニカ共和国、エクアドル、エジプト、エルサルバドル、エチオピア、フランス、ギリシア、グアテマラ、ハイチ、アイスランド、インド、イラン、イラク、レバノン、リベリア、ルクセンブルク、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、パキスタン、パナマ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、シャム、スウェーデン、シリア、トルコ、イギリス、アメリカ、ウルグアイ、ベネズエラ。
世界人権宣言の起草委員会の委員長であるエレノア・ルーズベルトは、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻です。彼女は、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家で、リベラル派として高名でした。
大恐慌後の世界的な不景気下の1933年3月4日に、ルーズベルトは大統領に就任しました。その後ルーズベルトが3選されたホワイトハウス時代の12年間、エレノアは夫フランクリンの政策に対して大きな影響を与えました。
ルーズベルト政権の女性やマイノリティに関する進歩的政策は、ほとんどがエレノアの発案によるものです。彼女は、ルーズベルトが第二次世界大戦中に推し進めた日系アメリカ人強制収容に反対しています。さらに、この間に多くの友人を得たことが、夫の死後、アメリカ国連代表といった第二の人生を開く大きな財産となりました。