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ロアール・アムンセンは、1888年にフリチョフ・ナンセンがグリーンランド横断に成功したことに感動し、探検家になることを決意しました。
アムンセンは少年時代の夢をかなえるべく、1897年から1899年にかけてベルギーの探検船ベルギカ号の航海士となって探検隊に参加することになりました。ベルギカ号は南極海で流氷の群れに閉じ込められて身動きが取れなくなり、期せずして南極初の越冬探検隊となりました。
この越冬時にアムンセンは極地の経験を積み、探検家としての道を歩み始めました。
20世紀の初頭において、大西洋側から太平洋側へアメリカの北を回って航海する「北西航路」は、欧亜間の最短航路になりうると考えられていました。
16世紀以来、ヨーロッパの多くの航海者が挑戦してきましたが、氷に阻まれ誰も成功していませんでした。19世紀に入ってもイギリスのジョン・フランクリン率いるイギリス海軍の艦隊がカナダ北方で全滅するなど多くの犠牲者を出してきました。
1903年、アムンセンは借り入れにより探検費用を整え、乗員6名とともに47トンの鋼製機帆漁船ヨーア号で大西洋から北西航路へ入りました。キングウィリアム島近くで2回越冬したアムンセンは、イヌイットから、犬ぞりの使い方や獣皮の着方など寒帯で生き残る術を学び、これが後の南極などの探検に生きました。
アムンセンは、1905年夏に越冬地を発して、1905年8月17日にカナダ北極諸島を抜け、ボフォート海へ出ることに成功します。しかし、アラスカ沖で流氷に閉ざされ、3度目の冬を越すことになります。
次の夏、氷を脱出したヨーア号は、ベーリング海峡を通過し、アラスカ太平洋岸のノームに入港しました。こうしてアムンセンは、史上はじめて北西航路の横断航海に成功しました。
北西航路横断航海に成功したアムンセンは、次に北極点到達を目指しました。北極点探検の準備中、1909年4月6日にロバート・ピアリーが北極点に到達したことを知り、目標をひそかに南極点に変更しました。
しかし、出資者や隊員にはこれを告げず、秘密裏のままに準備を進め、1910年8月に「北極探検のため」という名目で、ノルウェーを出航しました。
出航後、マデイラ諸島の首都フンシャルに寄港した際に、北極点ではなく南極点を目指すことを乗組員に初めて明かしました。アムンセンはこの時、「反対する者は、直ちに下船して去ってもかまわない」と言いましたが、乗組員はこの計画に賛意を示し、計画はスムーズに変更されました。
アムンセンは帰還後、多くの講演活動をこなし、探検旅行の費用の負債を返済しました。特にアメリカにおいては英雄としてたたえられ、自国よりも多くの時間をアメリカで過ごしました。
一方で、自国の悲劇の英雄スコットをひいきにするイギリスでは、冷たく扱われました。独立間もないノルウェーにおいては、国民のナショナリズムを喚起し、国民的英雄となりました。
アムンセンは、1925年には、ドイツの高翼単葉の全金属製双発飛行艇「ドルニエ・ワール飛行艇」で、北極飛行を行いました。また、1926年には、飛行船ノルゲ号による北極点通過を行い、同行者のオスカー・ウィスチングとともに、人類史上初めて両極点への到達を果たした人物となりました。
アムンセンは1928年に、北極を飛行機で探検中に、近くで遭難した飛行船によるイタリア探検隊の捜索に、飛行艇「ラタム 47」で赴き、行方不明となります。その後、トロムソ沖で、ラタム 47のフロートとガソリンタンクのみが発見されました。