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アルベルト・アインシュタインは、特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボーズ=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績などにより、世界的に知られている物理学者です。
アインシュタインは、チューリッヒ連邦工科大学を受験するも、総合点が合格基準に足らず失敗しました。しかし同校の校長は、アインシュタインの数学と物理の点数が最高ランクだったので、アーラウのギムナジウムに通うことを条件に、翌年度の入学資格を与えてくれました。
アインシュタインは、1902年、友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きで、ベルンの、スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職しました。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得ました。
アインシュタインは、1922年の10月に、日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船しました。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、大正天皇に謁見しました。
アインシュタインは、科学的業績によって得た世界的名声を背景に、様々な政治的発言を行いました。第一次世界大戦中は平和主義を掲げ、戦争を公然と批判しました。「2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の人数を収容する刑務所を保有していないんだ」と発言し、反戦運動に影響を与えました。
しかし、第二次世界大戦の際は、一転して戦争を正当化し、「最早、兵役拒否は許されない」と発言し、同時代人の文学者ロマン・ロランからのちに痛烈に批判されました。
アインシュタインの遺体は焼却され、灰は近くのデラウェア川に流されました。
しかしアインシュタインの解剖を行った解剖学者トマス・ハーヴェイは遺族の承諾を得ずに、脳だけを自宅に持ち帰りました。そして、40年間も手元に置き、スライスした切片を求めに応じて知人に配布しました。その後世界各地の博物館・科学館でアインシュタインの脳の切片の展示が行われるようになりました。
晩年、彼は脳の残りをアインシュタインの孫娘に返却しています。